宮城県における明治・大正期小学校建築の意匠と変遷に関する考察
渡部 ひとみ
日本において小学校は、明治5年の学生発布により、富国強兵の政策に基づいて初等教育の重要性を認識した政府からの要請で作られたものである。それまでの伝統的な制度と異なる近代教育を行うため、教える場である校舎もそれに合わせ変化を遂げていった。近代の小学校建築の研究であり、意匠に関するものはほとんどない。また、宮城県内の小学校についての研究も同様である。そこで本研究では、対象を明治・大正期の宮城県内の小学校建築に絞り、その立場意匠の変遷について辿る。研究の方法としては、「宮城県庁文書」の中の「学書」を使用する。
その中の学校の新増改築申請用の図面を基礎資料に、そこから立面図が存在する小学校を選出し、表を作成し、考察を行う。
資料とした宮城県庁文書には、明治期の小学校として439例、大正期49例の記録がある。その中で意匠の読み取れる立面図が存在するものは明治期68例、大正期25例である。それらを年代に並べ、主に校舎正面の立面デザインについて考察した。年代順に並べた結果、明治16年までのものには校舎の角にコーナーストーンという装飾が見られるので、明治5年から16年までを第一期とした。次いで明治32年からは明らかに洋風の意匠を持つものでは見られず、明治32年からは明らかに洋風の意匠を持つものは見られず、明治31年までを第二期とした。その後大正末期まで特に大きな変化は見られないので第三期とした。よって、宮城県内の小学校を外観意匠について時代区分した結果を示す。
第一期(M5~16)
近代の学校建築の様式は、二つに大分される。一つは擬洋風様式と呼ばれる、民間の大工棟梁たちにより日本家屋の技術の上に極端に洋風を模倣した意匠を用いたものである。特徴としては、主棟中央付近な上下窓、中廊下式でほほ左右対称型であることがあがられる。もう一つは江戸時代の教育現場である藩校や郷学校、寺子屋から発展した和風なものである。和風様式のものは、廊下を縁側式に外周させ、建具には襖や障子、板戸等を用い、教場は畳敷きであった。この時代の小学校はほとんどが寺院や民家を借用しており、擬洋風は全体の2割に満たない。読み取りが可能な立面図では13例中11例が擬洋風で好んで建てられていることがわかる。校舎形式は一棟の単純なものが多く、外壁は漆喰を塗り、窓は田字型の小さな上下窓や回転窓、軒下には軒蛇腹をつけている。建物の角にはコーナーストーンを配しているものは11例中5例あり、校舎の屋根は寄棟がほとんどである。これらの特徴は、この時代の官公署や兵舎に良く似ている。また、この頃の和風様式のものは、従来の藩校・郷学校・寺子屋の様式を受け継いだデザインを保っている。
第二期(M17~31)
明治10年代後半からは擬洋風校舎であってもその目立った特徴が見られなくなってゆく。これは上記の大工棟梁たちの子弟が正規の建築教育を受け始めたためと、宮城県の「小学校建築心得」(M16)に「校舎ノ屋根ハ瓦葺ヲ最良トシ其周辺ハ壁ニテ造り又ハ板ニテ囲ミ其窓ハ成ルヘク玻璃ヲ用ユヘシ」と記載され外壁は下見板張が見られるようになった。校舎も形式は.字型、L字型配置などの変化が見られる。和洋折衷式が見られるようになる。
第三期(M32~T15)
明治30年代以降は折衷様式が発展し、質素になっていく。外壁は下見板張で、屋根も木羽やストレート葺きが目立つ。細かな規定を設けたため、学校建築は画一化してくる。また、大正期に鉄筋コンクリート造の校舎が出現するが、意匠的に置いてこれ以降の変化は特に見られない。第一期は学制発布直後でまだ学校建築を経験上理解している人がおらず、模索している。建築の様式は擬洋風と和風に大分され、後者の方が数は多く、地域のシンボルとしても意匠を凝らしている。第二期に入ると次第に擬洋風・和風を折衷したものが建てられはじめる。擬洋風の校舎は、不況により材料等で経費がかさみ、日本の気候風土には適していなかったため減少する。和風の校舎も次第に姿を見なくなる。折衷では廊下を中に組み入れ片廊下式にし、意匠は全体的に簡素な仕上がりとなる。第三期、明治28年の「学校建築図設計大要」に学校建築フォーマットが図示されると、画一的な建築が多くなる。学校建築の衛生問題が重要視され教育内の通風や換気、採光等を考慮した結果、衛生面が重視され、細かな規定が設けられた。結果、開口部の形は一定化し、廊下は北側片廊下が主流となる。以降、特に意匠においての変化は見られなくなる。よって、小学校建築の画一化が進み、昭和の小学校建築に至る基礎となった。